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エルアル ヒストリー(4) アリババ作戦

エルアル航空は他の航空会社の設立とは違い、本国の人間を海外に連れていくよりも、世界各地に離散していた同胞ユダヤ人をいかに多く連れてくるかという使命を帯びた点ではユニークです。

イエメンの救出作戦に続き、1950年3月から翌51年12月まではイラクにいたユダヤ人11万3000人が飛行機に乗せられてイスラエルに帰還したのです。これを「アリババ作戦」または「エズラ・ネヘミヤ作戦」とも呼ばれています。

エズラ・ネヘミヤとは旧約聖書に登場するユダヤ人で紀元前5世紀バビロニア(今のイラク)の捕囚から解放され帰還した中で中心的な役割を果たした人物です。その頃にそのままイラク地方に残ったユダヤ人がいたというからやはり2500年の長い期間もコミュニティがあったので驚かされますよね。

大戦中、親ナチスであったイラクではユダヤ人の生活は苦しめられてきました。41年には暴動で180人のユダヤ人が殺されます。そしてイスラエル建国前にはさらに状況は厳しくなりました。イラクからの「すべて財産を置いて行くならばユダヤ人は海外に出て行ってもいい」という命令が下ったためイスラエ政府とエルアルは急いで輸送のための飛行機を準備しました。最初はキプロス経由でしか飛ぶ許可が下りませんでしたが、最後はイスラエルのロッド空港までイラクのユダヤ人を運ぶ比較的な大きな飛行機を飛ばしたそうです。


↑テルアビブのロッド空港に降り立つイラクからやってきたユダヤ人

イラク各地から追われるように集まってきたユダヤ人は緊張していました。しかし、飛行機に乗るとみな、ほっとしてエルアルのスチュワーデスの着けていたダビデの星の腕章を見ると集まってきてそこにキスするので大変だったというエピソードがあります。エルアルのコマーシャルで「どこよりも自宅と感じる場所!」というのがありますが、迫害の多い歴史を通ったユダヤ人にとって自分の国の航空機に安心し乗れるというのはきっと私たちの想像以上のことなのでしょう。 

50年代の帰還運動はイラクだけではありません。インドからヨーロッパから次々とユダヤ人は飛行機でイスラエルの国に帰ってくることができました。数十万を運んだエルアルのパイロットやクルーそしてエンジニアにいたるまでこのユダヤ人救出は人生において一番心が燃やされた仕事であったそうです。
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エルアル・ヒストリー(3) 鷲の翼に乗せられて

イエメンのユダヤ人救出は「マジックカーペット作戦」と呼ばれましたが、別名鷲の翼作戦とも呼ばれました。それは、聖書の出エジプト記に19章には「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしのところにこさせた」の言葉をユダヤ人が固く信じていたからです。

49年の1月、イスラエルを出発したダグラス(D-4)の航空機はユダヤ人が集まるアデンに降り立ちましたが、みな人生で初めて見る飛行機にびっくり仰天! 「あの巨大な鳥はなんだ?!」と逃げ叫ぶ人も現れて大混乱。みな訳のわからない鉄の塊が飛ぶなど説明を聞いてもわからず機内に乗り込むのを拒否する人もいました。なんとかユダヤ教のラビさんの説得で事なきをえました。

DC-4は50席しかない小さな飛行機でしたが、一度に沢山運ぶためには何とか重量オーバーでも詰め込むしかありません。前回の写真にあるように座っている座席はなんと、木の椅子だったのです。それも4人がけの長いすを持ち込んで5,6人以上も詰めて座りました。シートベルトも6人まとめて1つという感じだったようです。それでもイエメンのユダヤ人も痩せていたので120名が乗り込んだというから驚きです。



↑ 写真は、飛行機の下の影で暑さをしのぐイエメン系ユダヤ人

イエメンからはエチオピア経由でイスラエルにいくので距離は2600キロ、9時間もかかってしまいます。敵国をすり抜けてラジオの無線で進路を決める飛行は、まさに生命掛けのアドベンチャーであったとエルアルのパイロットも後述しています。多いときには一日に7から8便が飛んできました。そのようにして短期間のうちに体が動かせない老人を除く47.000人のユダヤ人が50年の5月までの間、輸送機にのってイスラエルにむかったのでした。

飛行中に驚くべきことが起こりました。のどが渇いたということで水をスタッフが配ると、その数十分後に一人の乗客が熱いお茶をもってパイロットたちをねぎらうためにコクピットに現れたのです。その飛行機にはお湯にする設備なかったので、係りが見に行ってみると、飛行機の床で移動式のコンロで火を焚いてポットでお湯を沸かしているではありませんか! うっすらと床が黒くなっているのと皆がお茶をすすっているのを見て開いた口が塞がらなかったようです。

長い空の旅を終えてイスラエルが見えてきたころ、不安でいっぱいだったイエメンからの乗客は目を輝かせて聖書に書かれている乳と蜜の流れる地を見つめました。「ああ、われわれもついに鷲の翼に乗ってイスラエルに来たんだ!」と誰かが叫ぶと大歓声が起こりました。アップロードファイル

このようにイスラエル政府とエルアル航空によるユダヤ人救出はイエメンだけでなく、その後もアラブ諸国に次々と行われていくのでした。

エルアル ヒストリー(2) 魔法のカーペット作戦 

イスラエルが建国そして独立国家を宣言する1947年(国連の分割案)から48年。アラブ諸国では、そこに住むユダヤ人に対して憎悪が広がり次々と迫害が起きたことを前回書きました。

アラビア半島の「イエメン」という場所には、ソロモン王の時代からユダヤ人がいたと言いますから何と3000年もの間、5万人近くのコミュニテイを形成し大きな問題もなく暮らしてきました。しかし、この頃から財産を没収され、家や祈りの場所を焼かれそして1948年には82人が理由もなく殺されていたのでした。何とかこの場所から逃げ出さなければ全てのユダヤ人の生命が危ない状況でした。

イスラエルに住んでいた人たちは一刻も早く同胞を助けたい!というたまらない思いで過ごしていました。そのような中、突然イエメンのイマーム(イスラムの指導者)が「全て財産を置いていくなら、イスラエルに行ってもよし。ただ紅海への海路やアラビア半島の陸路を使うのは許さないぞ」と厳しい条件をつけました。

それに従うとアフリカの喜望峰までまわらなければならずほぼ行くのは不可能といっているのと同じでした。宗教的な伝統をしっかり守り、農業に多く携わっていたイエメンのユダヤ人は逃げる術も知らず絶望的になっていたのです。




↑ アデンからの飛行機の乗り込んでいるイエメンのユダヤ人。座っているのは木のベンチです。

イスラエル政府は、イエメンのユダヤ人を救うためにすぐに手を打ちました。エルアル航空を中心にイギリス、アメリカの航空会社に打診して飛行機をイエメンの首都アデンに向かわせ、秘密裏にユダヤ人を救出する作戦を進めるのでした。エルアル航空機ペイントを塗りなおして無国籍のチャーター機に替え、またユダヤ系の社長だったアラスカ航空が機体をそろえてくれたのです。しかし問題は、空路でいく場合に途中どこで燃料を補給するかでした。燃料が切れればアラブの国に不時着するしかありません。

アラビア半島の上は飛べないので、一度アフリカに出ると9時間もかかってしまいます。結局、イエメンからエチオピア、そしてテルアビブという三角ルートが採用されました。多くの危険を含んだフライトであることは誰も明らかでした。しかし、多くのクルーやパイロットが危険を省みずにこのオペレーションに参加しました。作戦の名前は「オペレーション・マジックカーペット」-魔法のじゅうたん作戦と名づけられたのでした。 続く 飛行機

エルアル ヒストリー(1) エルアル記念日

1948年8月18日(丁度61年前の今日ですね!)建国してから間もなく3カ月後にイスラエル政府は民営の航空会社の設立を閣議で決定しました。この年イスラエルは独立戦争に勝利しましたが、国を取り巻く治安状況は依然として厳しく、西の地中海以外はシリア、ヨルダン、エジプトと三方をアラブの敵国に囲まれていました。

すでに戦争前から海外の飛行機も輸送をとりやめており、イスラエルの市民は国外に出ることができません。加えてホロコーストで生き残ったユダヤ人がヨーロッパからイスラエルを目指しながらもたどり着くことができず各地で難民状況となっていました。

又、アラブの国々では建国と同時にそこに住むユダヤ人が迫害を受け、生活を脅かされていました。軍用飛行機では輸送に限界があり一刻も早く自由にイスラエルと世界を結ぶ市民のための航空会社が期待されましたが、問題はそのために訓練されたパイロットやクルーが殆どいなかったのです。また経済的に旅客機を買う予算もなかったため、実現は遠い先の話に思われました。

しかし、それからわずか一カ月後、ある事をきっかけにイスラエルの国営航空「エルアル」が不思議に短期間でスタートするのでした。



1948年9月29日、イスラエルの初代大統領ハイーム・ワイツマンはスイスのジュネーブを公式訪問することになりました。イスラエル政府は、独立した国家であることを世界にアピールするため、大統領の帰路をイスラエルの自国専用機で堂々と戻ってくることを熱願しました。しかし軍用機しか持っていなかったイスラエルはまずヨーロッパでの着陸許可が降りません。

しかし、ここであきらめないのが不屈のユダヤ魂。頑張るぞ。おーっ。

なんと、C-54という輸送軍用機を急きょ民間の飛行機に変えてしまったのです。外のペンキを美しく塗り直し、「国営飛行会社」と胴体にはヘブライ語と英語で書きました。尾翼にはイスラエルの国旗でもあるダビデの星も書いたのです。会社の名前は担当弁護士のスチュパック氏がユダヤの旧約聖書「ホセア書」から「上方に向かって」または詩的な表現で「大空に向かって」という言葉の「エルアル」に決め青色のペンキで書き加えました。

硬い座席が外され座りごごちのいいソファーの席が積み込まれました。徹夜作業で急いで民間機に作りなおしました。9月27日に何とか許可がおりイスラエルの民間機として初めての国際コード「4X-ACA」が登録されたのです。

パイロットとクルーは、「マハル」と呼ばれた建国以前からイスラエルを救うため世界から駆け付けてきたユダヤ人民兵組織がボランティアで引き受けてくれました。写真は南部のネゲブ地方にあるエクロン基地で整備を終え、これから飛び出そうとしているエルアル・第一号機です。大統領を乗せたC-54の専用機は、2日後に再び国民の拍手喝采の中この飛行場に降り立ったのです。国全体が盛り上り、すでにその年のうちにエルアルの航空が軌道に乗ったのは言うまでもありません。

エルアル クラシック(2) 1970

70年代のエルアルカラーはオレンジでした! この時代日本からキブツなどに働きにいった世代の方には懐かしいですよね。イスラエルのカラーといえば国旗である青、水色、紺というのが定番のなかオレンジは斬新でした。(ややオランダKLMとかぶるのですが、オレンジ単色は珍しい)

イスラエルでは1900年の初期、ユダヤ人の入植とともにその時に初めて海外からオレンジの苗が運ばれてきました。それが地中海性の気候にぴったりあったので農業が飛躍的に発展するきっかけを作ったのです。ユダヤ人だけでなくアラブ人もオレンジの栽培で大成功したので生活は潤い、経済効果はまさにオレンジ・マジックだったそうです。(中東経済史から引用) 

そういえば確かに聖書にも登場しないので、ヘブライ語の名前は外来語の「オレンジ」そのままと思いきや、「黄金の果実(タプアッハ・ザハブ)」と名づけられました。まさに金のなる木、それがオレンジだったというわけです。まあ、オレンジはイスラエルの70年の流行色だったのは間違いありません。みかん

LY FA2

エルアル クラシック(1) 1950

エルアル航空は、国の歴史とともに60年を迎えました。世界とイスラエルを結ぶだけでなく、1900年間も世界中に散らばっていたユダヤ人を祖国に帰還させる重要な役割を果たしてきたんですよね。その数は数十万人といわれますから本当にすごいものです。

今週はいろんな資料と写真をもとにエルアルの歴史を紹介していきたいと思います。(続く限り...)

まずはFA、スッチーさんからのフォト。
これは1950年代のユニフォーム。白黒ですが、薄紺で帽子には金色のダビデの星のマークに羽が描かれています。昔の日本のバスガイドさんのようですね。

LY FA1

ローマ法皇 (2)

イスラエルは3つの宗教の聖地。いい関係が続くといいですね。


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